「ちょっとした風景」へ

進雄神社(高崎市)初詣
2005年11月3日、友人からの急なお誘いで、群馬県沼田市発地町でりんご狩りを楽しみ、
その後友人がまだ一度も訪れた事がないというので、天狗の霊峰として知られている
迦葉山龍華院弥勒護国禅寺(かしょうざんりゅうげいんみろくごこくぜんじ)へ
紅葉狩りも兼ねて参拝しました

この日は生憎の曇天、今にも雨が降り出しそうな中、一方通行となっている山道を延々と登り、駐車場へ。車専用の道とは別に、参道が杉林を縫って続いているが、流石に参道を登る元気はなく、いつか挑戦したいと思いつつの道行きでした。
拝殿からまっすぐ降りた所が遠くの山々を見渡せるスポットとなっており、期待していなかった見事な紅葉と雲間にうっすらと浮き上がる遠くの山を堪能。写真を撮っている人達も沢山いました。ただ、私の性能の悪い携帯カメラでは画面が真っ暗になってしまい、レタッチソフトで辛うじてここまで修正。晴れた日には遥か富士山まで見えるとの事です。大変美しい景色でした。

迦葉山龍華院弥勒護国禅寺(かしょうざんりゅうげいんみろくごこくぜんじ)は、関東三大天狗の御山として知られる所です。他の二山はどこなのかネットでは調べられませんでした。

開基は、嘉祥(かしょう)元年(848年)にまで遡る大変古いお寺です。上野国太守葛原一品(かどわらいっぽん)親王の発願を受け、比叡山三祖円仁慈覚(えんにんじかく)大師が、仏典の結集(けつじゅ)の地と酷似しているとして、鎮守護国の寺として千人供養法要を開き、迦葉山龍華院弥勒護国禅寺とした。
康正(こうしょう)2年(1456年)に、天巽(てんそん)禅師が行脚の途中に慈雲(じうん)律師を慕い来山した時、慈雲律師は天巽禅師に住持職を譲り、「曹洞宗」のお寺となる。
また、天巽禅師に随伴していた中峰尊者(ちゅうほうそんじゃ)という神童がおり、伽藍の造営や布教など大きな働きをした。天巽禅師が二世に譲ると、その神童は、自分は迦葉仏の化身であり役目を果たしたので山に宿り衆生を救う、と言い残して昇天。その後に天狗の面が残されていたという。

この迦葉仏とは、仏陀の教えを文字に残した(結集)迦葉ではなく、仏陀も礼拝したという摩訶迦葉(大迦葉)のようです。私は勝手にイエスにとってのバプテスマのヨハネのような存在だと位置付けていますが、これは単なる私見。仏陀が弟子と共に修行していた時見た目ぼろぼろのなりで顕れた摩訶迦葉に、仏陀は膝を与えたといいます。つまり、迦葉さんは仏陀の膝の上にちょこんと座った訳です。ここは、それだけ徳のある修行者だった摩訶迦葉が、神童に化身してやってきたという伝説の残る所なのです。


その修行者のイメージと修験道がどのように混同されて行ったかは専門家に任せるとして、このお寺には狛犬のように、大天狗・小天狗が入口を守っています。
大天狗(右側)は鼻の高い天狗の顔をしており、小天狗(左側)は烏天狗の容貌をしています。神仏混合の影響なのか、なかなか興味深いですね。仔細は紹介されていませんでした。



拝殿内にも天狗の面が祀られており、そこから続く奥にある中峰堂(ちゅうほうどう)には、日本一大きな天狗の面が祭られているとの事です。
拝殿では、天狗の面を借りて帰り、次の来山時に門前のお店で新しい天狗の面を買い、2つ共に奉納、更にひとまわり大きな天狗の面を借りる、つまりその繰り返し、という慣わしがあります。
ちょっと面白い趣向とは思いつつ荷が重いので止めました。









ここまでは順調だったのですが、魔がさしたとはこの事か・・・という大苦行が待っていたのです。

迦葉山を出発点に玉原高原まで遊歩道が続いています。途中「和尚台」と呼ばれる奥の院や、その先にも湿原があったり、という具合。
一番近いのが和尚台。600m約25分とあり、友人がちょっと行ってみるか?と言い、私は「和尚台」の側に「胎内くぐり」という場所があったので、これは死と再生のイニシエーション、生まれ変わってみようか、などと軽い考えで同意し、歩き出しました。

初めから細い獣道もどきの道、坂道は辛いかな、位の気持ちでいたら、とにかく延々昇り道が続く。右に折れ左に折れ、道を見失いそうになりながらとりあえず歩きました。途中、登山の格好をした夫婦と会う。完全防備だが、私たちは600m歩くだけだし、とまだ余裕でいました。だが、道は段々と険しくなり、枯葉に足を滑らせながら、「まだ半分も来てないのかね」と言いながら、足の筋肉が悲鳴を上げ始める。もうそろそろなのではと思った頃に道標を見つける。まだ半分の行程。嘘だろ、と思いながらも、3本の杉が根元で1本になっているものや、太く真っ直ぐに伸びる木々を眺める余裕はありました。その後途中で小さな男の子を連れた家族と会うが、子供はおしりで降りている。無言で擦れ違い、その辺りに行くと、確かにほんの気持ち程度に置かれた石を足がかりに、近くの木や枝、岩につかまりながら、掛け声をかけないと昇れない程の峻厳な道となる。
外気は10度以下だというのに、背中は汗で濡れ、髪の付け根から汗が滴る。その険しい道をどの位歩いたかは、今となっては判然としません。こんなはずでは、という思いと、修験の山だから、という気持ちとが入り乱れ、それでも二人とも引き返す気にはなりませんでした。やっと遥か上空に(山というより空に近い)古びた木造の小さな建物が見えて来ました。そこに行き着くまではより険しい道となる。完全に踏み台の石に捕まりながら体を引き上げるしかない。
そして道標。
そこには明らかに「和尚台」とある。
遥か上空に見えた建物がそぐそこにある。
その背後(つまり目の前)はほぼ垂直に切り立った崖。見上げると後ろに転げ落ちそうになってしまう。
「胎内くぐり」は?と見ると、切り立った崖の裂け目から垂れ下がる錆びた太い鎖2本(上の画像)。見上げると鎖は上まで続いている。そしてかなり上の方に木の台のようなものが見える(下の画像、ちょっとよく映っていませんが、真ん中の上部に見える黄色や赤は崖上の紅葉)。顔面蒼白。
とてもじゃないが普段着ではムリだし、垂直に切り立った崖を上るなんて高所恐怖症の私には絶対不可能。やはり、死と生のイニシエーションはそう簡単なものではなかった・・・。修験者達はここで再生をし、マッサラな状態で修行していたのでしょう。

「和尚台」は、改宗開山の天巽禅師が修行した場所であり、崖の高さ60m、「胎内くぐり」と呼ばれる割れ目や五百体の羅漢像が壁面のところどころに安置されています。禅師が修行した場所であるとの事。

仕方なく「和尚台」の内部に入る。
この時も、膝を付かないと昇れない。板はギシギシと音を立て、その下が何もないため、恐怖が伴う。
一息つき、台から外を眺めると美しい紅葉が目に飛び込んできました。台の奥からも岸壁に続いているらしいが、そこまでの気力体力は尽きていました。



崖に向かって作られた格子状の壁には多くのおみくじが縛り付けられ、いろんな人の祈りを感じました。お賽銭を入れ、手を合わせました。



坂道は下りの方が辛いもの。
「和尚台」で滴り口にまで入ってしまった汗を拭い、上着を腰に巻きつけて帰途に着く。
友人が前を行くが、彼女、手足が長く、私がもたもたとやっといろんな所に捕まりながら片足ずつ降りる内に先に行ってしまう。途中から何度も痛めた左ひざが激しく痛み出し、ももには震えが走る。
流石に帰途は、行きの10分の1位の距離に感じました。


画像に納めると、険しい道も、のどかな林にしか見えない所が何とも虚しい。

やっとの事で拝殿まで辿り着くと、ポツ、と何かが当たる。そしてそれは段々と激しくなり、大きな雨粒へと変わって行きました。
まるで私たちが下山するまで、雨を止めてもらっていたような錯覚に陥りました。山道で雨に降られたら、濡れた枯葉や土に足を取られ、遭難確実。携帯アンテナ立たない所だったし。
死と再生は叶わなかったが、新たな進展までは得られた気がしました。





途中入った喫茶店で、ちょっとした滝があるのを知り、友人がその場所を確認。

迦葉山を降り、道を玉原高原方面へ進んだ右側。かなり山の中腹にありました。道から見える位置。
「強清水(こわしみず)の滝」。
滝という程の落差はありませんでしたが、堂々と流れる様は迫力がありました。気持ちのいいものです。
かなり激しかった雨もこの時は小降り。
外に出てゆっくり眺められました。
これも不思議。
雨が味方している?

「強清水の滝」の由来の案内板がありました。
それによると、昔発地の国(ここより沼田寄り)に親孝行な息子がおり、老いた母が病に伏し物も食べられなくなり、水を求めた。息子は迦葉山へ祈願のため日参し、七日目に中峰尊のお告げあり、この地を教えられ、その水を飲ませた所たちまち母の病が癒えたという。この話を聞いた人々が列をなして強清水を汲みにきたと伝えられています。
「強清水」とは、あまりの水量と冷たさに思わず「強(こわ)い」と言った事からいつの間にかそう呼ばれるようになったとか。


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