『話す、語る、沈黙する』

                           山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)
                                2004.5.15 群馬県立女子大学公開授業

※ 言葉や文章はメモを基に書き直し、解釈等も主観が入っています。

山折哲雄(from Wiki)教授は1931年生まれの73才、
駒沢大学、東北大学等を経て現在京都の国際日本文化研究センター所長をされている。

講演を行うという事でまず小林秀雄のあるエピソードから語り始めた。

小林秀雄は、批評の神様と称され、日本近代文学に批評精神を確立した方です。
彼がある講演の時、壇の中央に立ってうつむいたまま沈黙を続けた。
4分、5分とずっと沈黙を守り、ついに「今日は駄目だ」という言葉を残して退場する。
その時、会場からあつい拍手が起こった。
話者―聴衆の関係での沈黙は、言葉以上のものを持っていたからである。
たぶん、小林秀雄は、沈黙していた間、話すべき事を考え抜いていたに違いない。
だが、明晰な言葉で表現する事ができず退場したが、その想いが聴衆に伝わり、拍手になったと思われる。

長く東京で暮らしていたが、国際日本文化研究センターに勤務するようになって17年前に京都に移った。
初めは郊外(洛外)に住むが、本当の文化には触れることができなかった。
4年前に下京区に移る。
そうして初めて京都の歴史・文化に触れる事ができた。
祇園まで20分の距離の場所で、よく散歩をする。
その度に発見がある。
北に5分歩くと本能小学校跡に辿り着く。
そこに立つと「本能寺の変」が脳裏に浮かび、織田信長が詩を吟じて亡くなる様が蘇る。
信長の50年が一瞬のうちに夢幻と化した場所。
30分ほど呆然と佇む。
また、家から3分程の所には、以前血を吐いて入院した四条病院がある。
その正面の壁に1枚の銅版がある。
26聖人殉教の地。
多くの人々がキリスト教徒となり、活躍した場所である。
その聖人達は、後に迫害を受け長崎で処刑されている。
更に西に10分の所には、壬生屯所がある。
当時そのままの状態が残されている。
維新の志士、新撰組の浪士達の活躍した場所。
そのように、京都には至る所に血の臭いが漂っている。
京都は全国から権力を争奪するために人々が集まり戦って死んでいった土地であり、亡霊や怨恨に満ちている。
それらを慰める為に多くの寺社が建てられた。
つまり、亡霊鎮魂のためである。

南に5分歩き、高辻通りを右に入ると石碑がある。
道元禅師御自寂の地である。
道元は、晩年福井に永平寺を建て活動するが、病になり京で治療、弟子の屋敷で養生し、そこで亡くなる。
石碑より更に南に5分行くと、東西に走る松原通りに出る。
そこは昔の五条通り、つまりメインストリートであった通りである。
弁慶と牛若丸が対決した五条大橋にぶつかり、ちょっと東に入ると、やはり石碑がある。
親鸞上人御入滅の地。
もしかして二人は京の街で擦れ違っていたかもしれない。
散歩をしながら歴史を遡ったり下ったりと思いを巡らせる。
「話す」「語る」とは、歴史上の人物と話を交わす事をも指す。
路地・小路に入るのは、もうひとつの楽しみである。
50m、100mおきに発見がある。
小さな祠が沢山祀られており、小さな神様仏様たち、名も無いもの達が綺麗にされ、花が供えられている。
その地の人々が何百年もずーっと祀ってきた。
これが京人の信仰である。
路地に入って初めてその土地が、全体がわかる。

京を訪れた友人を案内する機会が多くあるが、必ず寺の庭をコースに入れている。
そこには日本文化の精髄があるからである。
ある時人の流れが変わりつつある事に気づいた。
お寺の中に入るとまず本堂へ行き、本尊を座って拝んだり、見上げたりしていた。
その後、庭をみるために外に出ていた。
だが、最近では、本堂の本尊の前に留まっていない。
通りすぎる。
お寺が、博物館や美術館になってしまっている。
日本人は寺に来ても、信仰が無くなっている。
だが、縁側に出た途端、庭に目を向けるために人の流れが滞る。
老若男女問わず、立ち止まり、30分1時間と庭に見入る。
明らかに人の流れが変わってきている。
今、仏は本堂の中にはいない。
人々は、庭・自然の彼方、庭の木陰葉隠れに仏の身じろぎを感じ、対話が始まる。
縄文時代以来、日本人は自然の中に仏や神を見ていた。
後に仏教が伝来し、8・9世紀になって仏を堂の中に閉じ込めたのだ。

日本の宗教は「感ずる」宗教である。
一方キリスト教は「信ずる」宗教である。
平成7年にイスラエルへ行っている。
阪神大震災やオウム事件のあった年の秋。
テロはまだ散発的でそれ程危険ではなかった。
砂漠の中、イエスの生誕地ナザレから東へ、伝導を始めたガリラヤ湖を通り、ヨルダン川沿いに南下した。
そしてエルサレムへという、約150キロメートルの旅。
その時感じたのが、行けども行けども砂漠が広がり、地上に頼るべきものがないという事だ。
その風土であるが故に天上に価値あるものを置くしかなかった。
1神教が始まる風土的条件であり、絶対神が必要な条件であった。
キリスト教は、神を信ずるか信じないか、神の言葉=バイブルを信ずるか信じないかが重要である。

そして、日本の豊かさに驚いた。
山海、頼るべきものに満ち溢れている。
至る所から神の気配が感じられ、多神教となる。
自然の中から何かを感ずる文化である。
それを、寺の中ではなく、庭に感ずる。
神仏の言葉を受信するのである。
アジア世界の沈黙とは、豊かさを意味していた。

約30年前駒澤大学助教授の時代、ある夏に教職員の研修旅行で3日間永平寺に宿泊した。
50人位で訪れ、座禅の手ほどきを受けた。
カンカンカンという鐘の音で午前3時に目覚める。
そして1時間ほど座る。
大変つらい時間である、全く身につかなかった。
あっという間に3日間が過ぎ、最後の住職のご法話で
「二度来るものかと思っているでしょう、騙されたと思って5分でいいから起きた時に座ってごらんなさい」
と言われた。
翌朝この言葉が浮かび、5分座ってみた。
以来それが癖になっている。
そして、20年では悟れないと悟った。
ある時言葉が聞こえてきた。
「無念無想になろうとするから駄目なのであり、ものを考える時間にすればいい」と。
デカルトの言葉が浮かんだ。
「我思う故に我あり」
開放感とともにすーっと自由になる感覚になった。
道元だって雑念妄想の時間があったはずである。
デカルトの時間である。
道元とデカルトが同じ時間を共有していたかもしれない。
同じ事なのではないか。

金閣寺と銀閣寺が一番考えさせられた。
その美しさは四季のいずれでも美しい。
ずっと「にせもの」だと思っていた。
昭和25年に金閣寺の放火炎上事件があったが、その心理がわからなかった。
5年後に三島由紀夫が、肥大化した自我により、美しいが故に嫉妬し美に対する怨念渦巻く青年心理を描いた。
だが、やはり理由が分からなかった。
昨年、久しぶりに金閣寺を訪れた。
参道を登って行くと金閣寺が隠れるスポットがある。
金閣寺の庭を造った人は、足利義満の権力に屈しながら自己を貫いたのではないか。
そのため、金閣寺を「消す」スポットを造った。
自然の中にすっぽり、林のしげみに隠れる所。
初発の時点で、既に金閣寺は炎上していた。
密かにその想いを後世に託したのではないだろうか。

豊臣秀吉と千利休は、権力と美で戦ったが、美は権力に敗れてしまった。
金閣寺は、臨済宗のお寺であり、北山鹿苑寺という。
取り巻く池や自然があるから、壮麗な世界を形造っている。
金閣寺が無くなっても、それらは残る。
庭が主役だからである。
日本の空間理解に必要なことである。

足利義政の別荘として建造された銀閣寺は、東山慈照寺という。
ゴールデンウィークの初日のものすごいラッシュ状態の時に、やっと中に入った。
庭に出ると、銀沙灘という砂と石で造られた空間がある。
乱反射して目に眩いばかりの空間であり、海の波の文様を描いている。
砂と石で盛り上げた「向月台」と白砂で造られた銀沙灘。
白砂の隣に銀閣寺(観音殿)があり、東対角線上に東求堂がある。
白砂を見て、ふと能舞台だと感じた。
悪戯心に能の亡霊達が顕れた。
能では、初めにワキが「諸国一見の僧(しょこくいちげんのそう)」と言って、シテの紹介をし、
隅に行って座る。
そして、シテが現れ、身を捩り語る。
シテの語りを聞き沈黙するワキは、シテの鎮魂であり、カウンセリングと同じ役割を果たす。
聞く事に徹する。
カウンセラーや僧のように。
「諸国一見の僧」とは観音殿を指し、東求堂へ消えてゆく。
銀沙灘は華やかな能舞台なのではないだろうか。

人間を超えた存在においても、沈黙を媒介として「話す、語る、沈黙をする」ことは大切である。

      ※ 文章におこすと味気なくなってしまいますね。
        山折教授の語りには独特の轢き付けるものがありました。
        宗教学者としての感受性の鋭さというのでしょうか。
        ただ、内容的には公開授業という事で、
        物足りなさも感じました。
        もう少し、宗教学者山折哲雄を感じたかったです。
        誤字脱字は気づいた時点で訂正します。
        また、省略した所も多々あります。













inserted by FC2 system