『古代群馬は語りかける』



2004年5月8日(土)に、県立女子大にて、「群馬学」という地域学を確立すべく、第1回目のシンポジウムが開催された。

基調講演として、関東学や東海学を専門としている同志社大森浩一名誉教授が、『古代群馬は語りかける』と題した講演を行った。

興味深い内容だったため、いくつかご紹介したいと思う。


まず、「群馬」という地名について、考察されていた。

藤原京(694−710)跡より発見された木簡には、「上毛野国車評(=郡)桃井里 大贄鮎」とあり、この時代には「車郡(くるまのこおり)」と呼ばれていたらしい。

献上された鮎とは、美味な魚であると同時に1年後に同じ川に戻ることから、「生命の蘇り」を象徴しており、信仰的な意味合いの強い魚だった。そのため、鮎を釣る時は釣り針を使わず、傷つけないために鵜によって捕獲したという。

「車郡」が「群馬」となったのは、奈良時代の流行に影響されている。

1文字を2文字で、または3文字を2文字で表記する流行があったという。

そのため、「車」→「群馬」。

群馬県では馬具の出土が多いという。

数え方によって違うらしいが、6Cの古墳では、長野と群馬が日本では一番多い。

この時代の豪族は、3頭立ての馬車に乗ることがステータスになっており、その憧れから「車」や「群馬」という字が採用されたと推測している。

次に火山災害により埋没した遺跡について。

高崎市の日高遺跡は、弥生時代の水田他跡であり、4C初めの浅間山の噴火により埋没したという。

また、群馬町の三ツ寺遺跡では、豪族の居館が発掘されている。6Cの榛名山ニツ岳の噴火により埋没。5C頃の居館とされており、こういうものの発掘は珍しいという。

同じ原因により埋没した子持村の黒井峰遺跡は、畠作の村であり、日本のポンペイと言われている。

天明3年(1783)の浅間山の噴火は有名である。この時の火山灰が地球を覆い、数年にわたり冷害を起こし、フランス革命が起こったとも言われている。この噴火により、嬬恋村の鎌原村は噴火の堆積物により埋没。江戸学者によって発掘されているが、特徴的なのは、大抵火山災害が起こると人々はその地を去るが、ここでは、家族を失ったもの同士が擬似家族を作って、開墾を行っている所だ。オランダ輸入のガラスの鏡が発見されたりと、かなり裕福だったらしい。

最後に「上野三碑(こうずけさんぴ)」について語っていた。

群馬県には1万2千もの古墳がある。これは南紀の6千に比べて大変多い。また前方後円墳が多く、珍しいことであるらしい。

「上野三碑」は、7〜8Cの石碑であり、山ノ上碑、多胡(たご)碑、金井沢碑を指す。この当時の石碑は、他に栃木と仙台に1つずつ存在するのみである。

多胡碑は、多胡郡建郡の宣言文(和銅4年711)が記されており、吉井町の御門(みかどもん)という場所に建てられている。御門という地名から、地域の政府があったと推測される。

多胡碑 from Wiki

続日本紀によると、766年に上野国の新羅人193人が吉井連(よしいむらじ)となる、と記されており、多くの渡来人が帰化している。群馬がより開放的な地域だったため、受け入れたとみられる。

現代人が考えているよりも人々の交流は多く成されており、平安京でも、百済や隼人の大集団が移住して来たり、上毛野の人々と出雲から来た人々の縁組を記すものもあるという。

山ノ上碑は、山ノ上古墳(高崎市)に伴う碑であり、古墳とともにある碑としては現存唯一の例だという。山ノ上古墳は、終末期古墳であり、年代の割り出せる(辛巳681年)貴重な例である。放光寺(ほうこうじ)の僧長利(ちょうり)により建造されている。長利は、この地方の豪族と見られ、母である黒売刀自(くろめとじ)のためにこの碑を建てており、女性中心社会だったことが伺える。

山ノ上碑 from Wiki

放光寺は、古墳の側にある小さなお寺という定説になっていたが、近頃前橋市にあった奈良時代の国分寺が出来る前の大きなお寺「山王廃寺」跡より「放光寺」と名の入った瓦がいくつも発見され、そこだったという説が有力になっている。

同じく高崎市にある金井沢碑は、神亀3年(726)に建てられている。内容は、「群馬郡下賛郷高田里」の女性を中心とした人々が、7代前の父母から現在の父母のために、仏教的な知識を結んで天地に誓うというものである。

金井沢碑 from Wiki

ここで「下賛(しもさぬ)郷」とあるが、もともとこの辺り一帯を「佐野」と称しており、広すぎたために上と下とに分割し、「下佐野」としたが、2文字で表す流行のため、音の近い「讃」があてられ、漢字を減らす減筆(げんぴつ)が行われて「賛」となり、上記の表記になったという。なかなかこの部分も興味深い。

また、緑野(みどの)郡(現在は多胡郡と緑野郡が合併して多野郡となっている)の郡名を持った緑野寺というところがある。平安時代、承和元年(834)5月に発せられた令において、相模・上総・下総・常盤・上野・下野の国司は協力して一切経一部を写経し、来年9月までに納めよとあり、一切経の教本は緑野寺のものを使うよう指示されていた。実際、京都高山寺にそれらしいお経が納められている。

このように見て来ると、文字文化は地方にも相当普及していたように思える。

古代史の教授達は、京都・奈良中心に物事を見るため、地方は立ち遅れているとの先入観を持っている。しかし、実際には優れた文字文化を共有したと見て取る事ができる。また、女性に力があった様子がしばしば伺える。そして、渡来人や北方の蝦夷の人達も多く来ていたのではないかと考えられる。

結論、地域学と言ってもいろいろな切り口がある。



以上、簡単なメモによる講演内容の一部紹介でした。

誤字脱字及び致命的勘違いもあると思うが、その辺はご容赦下さい。














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