日本語と日本人の心』


                                   河合 隼雄(文化庁長官)
                          
                    2004.7.10 群馬県立女子大学公開授業

      ※ 不完全なメモから勝手におこしたため、
        どうも上手く繋がらなかったり、
        堅苦しくなったりしています。
        実際は大変ユーモアに溢れた、
        飽きさせない楽しい講演でした。
        
        誤字脱字は気づいた時点で訂正します。
        また、省略した所も多々あります。













まず友人である谷川俊太郎の「耳をすます」という詩の朗読から始まります。


あらゆるもの、昔、今、いい音、恐ろしい音、何気ない音、音の無いものにも、
時を空間を越えて聞こえてくる音に耳をすます、という詩である。

この「すます」という言葉は、英訳が大変難しい。
日本語の特徴といえる。
つまり、listen to 〜 という時、そこには方向が示され、対象が明らかになっている。
例えば、「声」を聞く、というように。
しかし、「すます」という言葉には、方向性も対象もない。
これは東洋的なものの考え方だといえる。

ある心理学の実験がアメリカで行われた。
日本人のグループとアメリカ人のグループの学生達に同じアニメを見せる。
水槽があり魚が泳いでいるというもの。
日本人は、水槽などの景色をとりあげ、全体を見ている。
どこになにがあり、ここになにがあり、というふうに、全体を見ているが個別には見ていない。
アメリカ人は、注目したもの、例えば1匹の魚を主人公にし、
その魚が左に動いて行って等々と、自分を主人公とし、
他のものを、即ち全体を見ていない。
リチャード・E・ニスベットの「木を見る西洋人森を見る東洋人」という本で、
東洋人と西洋人の違いの実験を載せている。

吉川幸次郎という中国学者がハーバード大学で教鞭を取っていた時、
授業で中国の歴史書を扱った。
すると学生から質問された。
「いっぱい書いてあるが、どの筋を読んだら分かるのですか?」と。
すると「そんなものは歴史ではない、全部読んで最後まで行って分かるものだ」と返答したという。
こういう考え方は、西洋では通じない。
西洋では、ある本を読む時、何ページから何ページのどこを読みなさい、という教え方をするという。

日本人の面白さは、東洋的な見方を持ちながら、西洋を取り入れて近代社会に入っているという点である。
だが、西洋人と考え方が同じだと思っている日本人は多いが、ほとんどが違う訳である。

また、日本語は、全体を捉えるのに適した言語である。
例えば、@「明日は同窓会があるが、忙しくて行けない」
     A「明日は同窓会があるが、○○君に会うのが楽しみだ」
この時の「が」であるが、@は英語の“but”に該当する。
しかしAの「が」は、“but”ではないし、まして“and”でもない。
所謂「日本的“が”」である。
日本人はつなぐのが好きで、ふわふわ〜と繋げて話す。
この時使うのがこの「が」である。
文章を書くとき、英語の場合は初めから英語で文章を作るようにしている。
日本語のパターンは英語に訳すのが大変難しいためである。
西洋で個人を意味する「個」という概念は、日本で確立するのは大変難しい。
日本では、昔は「個」より「家」であった。
「私」を意味する言葉は英語では“I”しかない。
日本語では一人称を表す言葉は大変多い。
また使い方も違って来る。
例えば、働いて帰ってきた旦那さんが「わしはビールだぁ」と言った時、
英語で “I am beer”ではおかしい。
日本の場合、場を理解してから一人称を使い分けたり、或いは使わないようにしたりする。

韓国では、家族の中でも言葉の使い分けがはっきりしている。
目上の人の前では、絶対タバコを吸ったり酒を飲んだりしない。
そういう意味で上下の区別は厳しい。
だが、英語の “brother”や“sister”では、上下はそれ程重要ではない。
谷川俊太郎がスヌーピーを訳していて、砂漠に住んでいる「ブラザー」というキャラクターを、
初めは「兄さん」と訳した。
すると「違う」と言われ、では弟か?と訊いても「違う、brotherだ」という。
兄でも弟でもない。

日本語で特徴的なのは、体の表現を使う事が多いというところである。
例えば、「背伸び」「飲み込めない」「頭にくる」「腹が立つ」「腑に落ちる」などなどとても多い。
欧米ではあまり使われない。
では「腑に落ちる」という言葉で見てみると、
今は先端医療が大変進んでいるため、医者が患者や家族に説明する時専門的になってしまう。
専門的な説明をした後に家族に「どうします?」と尋ねた時、
理解できない、つまり、腑に落ちない、という事になる。
日本人が物事の理解を、頭ではなく体得するものと考えているからである。
つまり、人間全体として見ており、知性を切り離していない。
また、アメリカ人は肩がこらないというが、日本に来ると肩がこるようになる。
それを「文化の力」と呼んでいる。
日本に長くいる人の英語は、日本人に分かりやすいものとなってくる。
そういう人に英語を習い完璧だと思って欧米に行くと、全く使えない、という事になる。

日本語は同音異語が多く、ダジャレが言いやすい言葉である。
欧米人は、ジョークは好きだが、ダジャレはほとんどない。
よく「日本人にはユーモアがない」と言われる。
講演会など壇上で話をする時、日本人は弁解からはじめる。
しかし、欧米ではジョークからはじめる。
日本人は、人がわーっと集まるとなんとなく一体感を持ってしまい、目立たないようにする。
欧米では逆に目立たなくてはならない。
日本人の場合、一人壇上に上がり目立つので、弁解からはじめることとなる。
アメリカでは、人が集まっていても皆がバラバラなため、ジョークで笑わせ、一体感を作ってから話し出す。
例えば、アメリカでは、裁判の供述でさえジョークでわーっと盛り上がる。

日本は、昔は滑稽本や落語、笑い話などいっぱいあった。
だが、明治で途切れてしまった。
西洋に追いつけ追い越せで、必死になりすぎ、笑っている余裕がなかった。
この時に、笑い、即ちユーモアが失われてしまったのではないだろうか。
そろそろ「笑い」を復活させてもいいのではと思っている。
国際化には必要だからである。
心に余裕がないと、「笑い」は出てこない。

また身体表現が多いという事に話を戻すと、「身」という言葉が多い。
市川浩『<身>の構造 ―身体論を超えて』という身体を哲学的に分析した本に詳しく書かれていて、興味深い。
「身」は、身体(body)・私(I)・身内・身頃・身まかる・身に入るなど、
体・心・魂・親類など、とても多くの言葉を表すのに用いる。
日本では、物と心を区別せず、物の中に心も入っていたのである。
「物語」は、物について語っていない。
「身」という表現で、体と心を含めてしまう。
西洋ではそれらは区別するものである。
だが、日本では区別していない。
「もの悲しい」という言葉を英語で訳すのは大変難しい。
また、「もったいない」という言葉も英語に上手く訳せない。
ものを大事にする、という意味でも、ものを分け合う、という意味でもない。
日本独特の表現という事になる。

日本語は、仏教の言葉が分かると説明しやすい。
欧米では、物事をものすごく細かく分けていく。
しかし東洋では、ものごとはつながり放題になっている。
「華厳経」というお経では、個々のものはもともと存在しないという。
「自性(じしょう)なし」。
例えば、この机の上のペットボトルはない、という事になる。
それは私とペットボトルとの関係であり、相対化されてしまう。
禅をしていると不思議な事が起こるという。
ある人は、ふっと「2時だ」と思って時計を見たら2時になっていた。
ある人は、奥さんが何を作って食べているかが見えてしまい、尋ねたら「何で知ってるの?」と言われた。
このように、全部繋がっている。
それは「存在」としかいいようがない。
「存在」がペットボトルになっていて、ごはん粒になっている。
中世アラビア学の先駆者である井筒俊彦の『意識と本質 ―精神的東洋を索めて』にて、
存在の繋がりについて、哲学的に考察している。
「花が存在している」と言った時、主語は「花」である。
しかし、東洋では「存在」が「花」をやっている、となる。
「一粒に三千の仏あり」と言うように、一つは全体を現している。

日本の倫理教育は、家庭の中生活の中でそれとなく行われていた。
そこに言葉は必要なかった。
欧米人と話す時、「あなたの宗教は何か?」とよく訊かれる。
「仏教だ」と答えると、他のこまごました事を訊いて来る。
そして上手く答えられず、「日本人は無宗教」、即ち「だから信用できない」となってしまう。
だが、日本のそういったものは、日常の生活の中に入ってきていた。
今、日本人の生き方が変わってきている。
大変物が豊かになった。
そのため、急に倫理教育が出来なくなって来ている。
子供は個室を与えられ、物に不自由する事が無い。
家族とは何か、関係とは何かを教える事が出来なくなってきている。
昔は物が無かったから、ちょっとしたやりとりで心が通じる事ができた。

欧米は、ギリシャ哲学からキリスト教哲学と、神と他とを分け、神は絶対であった。
神の言うとおりが正しいからである。
人間の理性が全てという欧米の「個人主義」は、その中にキリスト教観があるため利己主義にはならない。
日本では、繋がりの中で生きていたが、個人が大事だという風潮に変化してきている。
だが、背後に拠って立つものがない事が難しい点である。
利己主義になりかねない。
「人を殺してはいけない」ということに答えられない。

去年ローマに行った時、上智大学で20年間学長をしていたピタウというバチカンの偉い人に会った。
「日本の個人主義を支える背後の世界観が問題だ」という話をすると、
彼は西欧も同じだという。
キリスト教を信じる人が減りつつあり、深刻な問題になっている。

家庭教育が大事だと思っている。
昔のようにではなく、今はある程度言葉を使って行うべきである。
外国では家庭での会話が多い。
「個」が確立してくると、親子としての対話が成り立ち、言葉で表現し合えるようになる。
これは世界的な問題になっているのではないだろうか。
親子で共通の体験をして会話する、文化に触れる。
今まで宗教は歯止めとなっていた。
それが無くなると凶悪犯罪が増えるのではないだろうか。

日本人は、古来から持っているものと、西洋的な取り入れられたものを上手く融合しなければならない。
これから日本語の表現がどうなっていくかが問題である。

※ 言葉や文章はメモを基に書き直し、解釈等に主観が入っています。

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